小説芸術の鋳型を作ったフローベル
現代にも通じる鋳型を創ったのがフローベルだと思う
文学史的な評価もおおむねそうだ
それをゾラが受け継ぎモーパッサンが受け継ぎ 19世紀末に
小説は読み散らかす散文から完全に芸術として昇華した。
しかしこういう写実主義を完成したというのは皮相的な見方。
書き手から見ると、フローベルが確立した手法は
書き方の大革命なのである
写実主義ではなく ただしく「現実であるかのように書く」主義というとことははっきりする
あくまで自然に 状況と情景と人物を描写して、つまらぬ作者の内面の吐露を廃したとき
ここに芸術としての小説が完成したのである
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ついに未開の大陸であるフローベルに上陸した
『感情教育』の最初の3ページを読んで素晴らしいと思った
そして『ボヴァリー夫人』を正式に読み始める、今500ページ中100ページほど。
小説を書く側の人間でないとわかりにくいかもしれない
フローベルがその原型を使って芸に仕上げた
だからボヴァリー夫人で何を書いたかが問題なのではなくて
あんな風に小説というものを書いたということが大事なのである
驚くほど完成された描写であり配列になっている
フローベル補記
フローベルの小説はまだボヴァリー夫人しか読んでいないが
何かとのりしろができて特に2つの点でとても親しみを覚えることになった
ひとつはゴンクール日記。
フランスの現在も最高権威とされる文学賞ゴンクール賞のもとになった作家の日記だ。
このゴンクール兄弟の日記に フローベルは頻繁に登場して エッカーマンの手になる『ゲーテとの対話』のフランス版のような様相を呈している
ゲーテが実際にこのように語ったことの記録がゲーテとの対話の真骨頂だが、ゴンクール兄弟の日記ではフローベルは登場してきて実際にしゃべるのである。これはとても面白い効果がある。
もうひとつは書簡である
小林秀雄が近代絵画論の中のドガ論にて ドガはフローベルが好きで特に恋人の画家ルイズ・コレあての手紙は一部暗誦できるほどに読み込んでいたと書いていた
これを読んで人の手紙を暗誦して何が面白いのかと思っていた
で 実際に書簡を読んで見たのだがこれはもう手紙であって手紙でない、19世紀、映像技術を日常的に利用する環境にはなく すべての出来事は文字で記録されるようなところがある。
なのでフローベルは身に起こったすべてのことを克明に日記にではなく恋人や友人への手紙として残しているのである
手紙はまるで優れた短編小説のように克明で面白く感動的だ、これなら暗誦したくなるなと思った