青春のトーマスマン
かつてヘッセとカロッサについての詩を書いた。カロッサにいたっては小説まで書いた。
彼らは高校と中学にどっぷりとまたがる読書体験であったのだし、散文も詩も繰り返し読んだから特別に愛着深い存在だった。
しかし高三の終わり頃に別のものが現れた。トーマスマンを知ったのは中学3年の時だが、作品を読んだのはその冬がはじめてだった。
トーニオクレーガーを中心とする短編集で、その大きめの文庫本のような本には長い解説と生涯の概略もでていて、大いに関心を深めたのだった。続いて浪人の時に、トーマスマン全集の評論集を買ってそれに没頭することとなる。それはぼくの好きなゲーテやトルストイやチェーホフやシラーやドンキホーテやシュトルムについての評論で、中でも『ゲーテファンタジー』という評論と『ゲーテとトルスイトイ』『ドンキホーテとともに海を渡る』などは繰り返し何度も読んだ。 それについて語ってくださいと言われたら1時間話ができるほどだ。
そして偉大なる『ファウスト博士の成立』。これはファウスト博士を書いてた期間の作家トーマス・マンの行動と魂が余すところなく述べられているのである。
そしてついに大学1年の秋に『魔の山』を読む。テレビというものを全く見ずに学校から帰ったらひたすら読んだ。二週間の秋。
自分の歴史の中では「秋の魔の山」体験と呼んでいる。
それは圧倒的な読書体験であった。
その後大学生活は「魔の山」と「トーニオクレーゲル」の再読に終始しつつ、評論集をさらに貪り読んだものだ。
やがて就職し『ブデンブロークス家』そして『ファウスト博士』と読破して行った。一方で『ヨセフ』は最初の100ページくらいしかまだ読んでいない。
ぼくにとってトーマスマンとは、評論家なのだ。
そしてその評論の展開は、詩的であり、そのまま創作作品だった。
『アンナ・カレーニナ』という評論の最初のかなり長い出だしの部分は、自分の目前にある海について、詩のように語るのである。海と叙事詩という概念をぼくは魂で受け止めていたようだ。ぼくは海を体験する。人は現実の海を見るよりもなお一層、その文章で海を体験することになる。そして、トルストイの作品はすべて海のようなものであると展開していく。
トーマス・マンとは批評を詩で語る人物なのである。詩人以上の名人芸によって。
トーマスマンのあの細部の展開がたまらなく好きである。ぼくにとってはそれとなんとなく翻訳を通して感じるロマン的な詩情。実はそれらが構想と論理によって計算されつくされているのだが、そしてそういうところからユーモアやアイロニーが生まれるのだが、奥行きの深い話の展開であることは間違いないところだ。