気持ちをありのままに書いても詩にならない
絵画には遠近法がありますね。近くのものは大きく書いて、遠くへ行くほど小さく書く、それによって遠近感を平面の紙の上に出す技法です。技法とわざわざ言わないほど今では当たり前になりました。ほかにも横のラインや縦のラインで構図を作るという基本を知ってるだけで絵画の世界が的確に響きます。そしてこれらの技法なしで描かれたものと技法ありで書かれた時、出来栄えはあまりにも違います。
しかし、人類が絵を描き出してから遠近法が生まれるまで1万年以上間違いなくかかっているのです。
子供が見たままを絵に描くと遠近法は使いません。遠近法で絵を書くのは自然に人間に備わった能力ではなく後付けで学ぶ技法だからです。でも、子供が一生懸命海水浴の絵を書くと大人は感動しますし、戦争体験の拙い絵でもそれを子供が書いたという事実が深い哀悼と感動を人々に知らしめるのです。
では言葉はどうでしょうか。
技法なしで書く時と技法ありで書く時とどちらが感動を生むでしょうか?
大人になって思ったままをべた塗のようにそのまま書くと、仲間内ならばあの人の気持ちはわかるとなって、それなりに感動もします、しかしそれは詩から来る感動ではなく、書いた人を知っていることからの感動です。
だからFacebookの詩のグループで仮にその人が「あいうえお」と書いたって何かしらの感動を生むものです。推敲なしのほうが人柄がにじみ出て感動するという人もいますが「あいうえお」に感動しているのですね
さて詩とは普遍的に知らない人が読んでも感動を生むべきものです。違うというならその時点で文集仲間活動しかできないわけです。
自分を知らない人に自分の感動を伝えるという行為は、むずかしいのです。あなたがどんなに叫ぼうとあなたの人生のワンシーンに誰も感動は持ちません。生老病死のような体験であれば違いますがそれでも読む人はいても文学ではありません
あなたの人生のある一日にあなたが感じたことを言葉にして、それを見知らぬ人が読んで感動を覚えるのは練習して身に着けた技法によるのです。
自分の感動をどんな言葉でどんな風に表現するとき一番人々に感動を与えるかを考えることが結果として詩のクォリティーを上げることができます。
自分は人に読まれるためにではなく自分のために書くのだという場合でも、誰が読んでもすごいと思われるように書かないとクォリティーは向上しません
結局才能とは自分の心を見知らぬ人に的確に効果的に伝える技術なのです
詩を読んでいて、遠近法レベルの技術もないときそれは読むに堪えません