文学的創造における自我と普遍的自己~Oさんのつぶやきから~
①「君の別れの言葉が頭の中でいつまでも舞い落ちる
でもやがて青空を背景に凛として裸の樹木が立ち尽くす時が来る
そのときは生きる意味が枯葉に覆われても
新たな意味を天に問いかける矢として
ぼくの魂は樹木中に乗りうつるのだ」
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という文章をOさんのつぶやきのコメント欄に書いた。
自我ではなく普遍的自己を示しているとも書いた。
ぼくの感想、ぼくの心情を書いているのだがこれは自我ではない。この文章をわたくしが書くときとても多くのことを客観的に吟味したからだ。
それは言葉を整えるという作業に由来する
推敲であれ初稿であれ、文字にするとき言葉を整える。
上の文章を自我で書くとこんな感じになる。
②「ぼくは悲しい
落ち葉を見ると君の別れの言葉が舞ってるように見える
道を枯葉が覆うと生きてる意味も隠される」
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これは単純に目の前の光景に自分の感情を、それも恋愛という単純な感情をかぶせただけである。景色という鏡に自分固有の感情を映しただけである。
一方①の文章はまず目の前の光景があって、それを舞台にして、想像の世界が作られている。そして恋愛感情を示す別れの言葉が落ち葉になっているシーンから、裸木となった樹木の力強さを詩的創造によって作り出しているがこれは目の前の光景を詩的に発展させているのである。
そして生きる意味が落ち葉に覆われるという自我のつぶやきを昇華させて、葉は落ちても本体の幹と根は青空を背景にそこに凛としてあると語ることで、もはや目の前の光景と現在の感情という即物的世界から、詩的想像で発展した世界と、詩的想像で拡大した感情が創造されているのである。
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自我から普遍的自己へ至る道がつまり文学的創造なのである。文学によって、言葉を創造することによって、思考も感情も世界も文字通り拡大深化するのである。
ということでこのことをサブローさんも古荘さんも語っているわけでわたくしも語っているのである。
とくに詩作品において、投稿されるものは目の前の出来事や景色や体験や、思い出などを鏡に今の感情を書いてるだけのものが多い。それはまだ文学的創造の醍醐味を知らないままに作られた自我のお菓子のようなものだ。
本当の創造はおいしいお米のごはんを炊き上げることだ