地の文と随筆と作品
Facebookの詩文でも小説でも読んでいると、作品意識の希薄さを感じます
上手いとか下手とかではなくて
自分はこれを作品として書いているという意識です
作品意識があるものは 仮に下手であっても好感が持てます
でも地の文と作品の文との境界すら作らず
しゃべるように書く マインドワンダリングのままつづる
そんなものは詩ではないんですね
地の文章は今やだれでも発信できます。FBに書いてアップするだけ。
するとそこには何やら独特の意味が浮かんだ感じになりますよね。
中には気の利いた言い回しや、面白い洞察もあって、短い随筆のようなものもあります。
ブログなども写真と文章を混ぜて面白い読み物が今や無数にあります
で、今回言いたいことは、そういう地の文章と作品の文章の違いについてです
詩についていえば地の文を改行して詩と名付けているものが無数にあります
随筆レベルの面白い文章もありますが詩にはなっていないのもあります
この辺を詳しく書いていくと だいたい反論されます
思いのままに言葉をつづるのが悪いことなのか?
詩は考えて書くものじゃない
そして 下手な詩を書く人に限ってこう反論します
地の文と作品の文は違うんだとなぜわからないのか?
文章は誰でも書けます
そしてSNSはそれをアップできるから活字になった自分の文章を誰でもすぐに見れる時代になりました。
活字になった自分の改行した文章を見ると なかなか立派なものに感じるものです(笑)