随筆は文学なのか?と聞けば10人がいれば10人ともそうだというだろう。日本においては、枕草子、徒然草、方丈記などの古典的名作文学は随筆である。ヨーロッパにもモンテーニュの「エセー」という文学史に残る金字塔の随筆がある。チャールズラムのエリア随筆記は随筆文学の頂点を極めるものとも言われる。
しかしたとえば寺田寅彦の随筆は、膨大で味わい深いがあれは文学なのだろうか?山口瞳や丸谷才一、ジャズピアニスト山下洋輔の随筆はあれは文学なのだろうか?
そうであるともそうでないとも言える。すべての文章が文学というわけではない。その境目は、よくかけていたら文学でまずければただの文章なのかもしれないし、一般雑誌に連載したらエッセイにしかすぎず、文芸誌に連載したら文学かもしれない。
はてしなくあいまいになるわけであるが、それでも随筆という文章形式は不滅であり、そこから受ける印象は小説とも詩とも違う。
大事なのはこのことだ。表現の形式が違うと、うける印象が変わるのだ。
随筆は何気に読める。お風呂でも読める。大衆小説もお風呂で読める。でもドストエフスキーや近代詩はお風呂でお湯につかりながらは読めない。
まあ何しろ随筆というのは素晴らしい。この極意は素直な感性だろうと思う。