詩の批評は可能か?
中原中也で考えてみる
これは私が暗唱できる詩のひとつ、要はメチャクチャ好きなわけです
北の海
海にいるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは、浪なみばかり。
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは、浪なみばかり。
曇った北海の空の下、
浪はところどころ歯をむいて、
空を呪のろっているのです。
いつはてるとも知れない呪のろい。
浪はところどころ歯をむいて、
空を呪のろっているのです。
いつはてるとも知れない呪のろい。
海にいるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは、浪ばかり。
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは、浪ばかり。
この詩を批評しましょう、なんてことにはならないですね。普通こういう叙情詩は味わうのみだからです。(いわゆる現代詩でも味わうのみですけどね)
これほどの詩を読むと、感想を聞いても
言葉になりません この印象は言葉にできません
でも敢えてそこのところを言葉にしてくださいと言うと、ぽつぽつと言葉にならないはずの自分の感動を言葉にしていきます
いわばそんな言葉にできなものを言葉にしているのが詩だとも言えますね
私の中では北の日本海、いや自分が経験した曇天の荒れた海の記憶とそれが醸し出すいろんな感情を言葉を伴走者にして味わうわけです。
その味わっているものはもう個人の世界ですね
じゃあ、作品への感想や批評というのはどこに存在余地があるのか?
その詩句が呼び起こす様々な感情(叙情詩)様々な思考(現代詩)を詩句というバックミュージックで味わってるときに、突如おかしな変調があったり、弾きそこないがあったりしたときに、今のは間違いましたね、今のは、ちょっと変でしたね、というのが批評でしょうね
じゃあ弾きそこないや妙な変調は誰が判断するのかというと読者になるんですが、ピアノや絵画だと、だれもがおかしいと感じる水準は共有されます。下手な絵や下手はピアノはわかりますよね。
詩にもそんなことがあるっていうだけの話。練習が必要ですというと、詩には練習なんかいらない、ふざけるな、というのが最近の出来事です。
そういうことで私が人の作品にケチをつける批評マシンと思ってる人たちがいますが、私はいい詩は絶賛していますよ。でもネット上にはいい詩はあまりないというだけの話でした