坂口安吾『堕落論』の普遍性|時間的にも空間的にも俯瞰するとき現れる日本版
『ツァラトゥストラの再来』
坂口安吾の堕落論を読んでいたらヘッセのツァラトゥストラの再来とデミアンを思い出しました そしてルソーのエミールも思い出しました 時間が立ち日本を離れて俯瞰するときあの論文は単なる日本人論ではなくなります
『堕落論』が肯定する聖なるものが堕落した戦後社会
神風特攻隊をはじめたとした聖戦に殉じた聖なる戦士たち
それをささえた戦争未亡人=聖女たち
そんな神々しい戦時中の人々が
生き残ったが故に堕落していくのは いかがなものか?
戦時中を思い出し 今一度日本人としてのモラルを回復せねばならない
そんな世の中の風潮を真向から否定したのが堕落論です
生き残るということは そして生き続けるということは
死と隣り合わせの究極の固定した現在が解凍し 未来に進んでいくということ
だから次のような現象が起こってあたりまえ
坂口安吾は生きるとは『堕落すること』だと言っている
戦争未亡人は生涯戦死した夫に操をたてる
→他の男を好きになって再婚する
戦死した友人の分まで戦後日本で立派に生きていく
→闇屋になって詐欺もする
人間は生きるためには堕落するのが必然である
というのが坂口安吾の考え。
武士道や軍人精神、その他もろもろの論語などの道徳律は
人間が堕落することを知っているものが 防止のために作っただけで
人間の本性とは真逆のルールである
だから堕落こそ湛えられるべきである
堕落しないようにみんなが生きる時
国家間の戦争さえ起こるのだ
そして堕落するためには 本性を解放し
堕落を受け止めることができれば人生は光輝くのである
これは第一次大戦後のヘッセがドイツ社会に発信した
デミアンや ツァラトゥストラの再来に酷似したメッセージだと思う
坂口が堕落と表現したものをヘッセは己自身を知れと表現したのである