詩
by古荘英雄
文学創作 小説 詩 ポエム エセーのためのカフェ
創作ノートの文章を散文詩という名目でアップしましたが、開き直って散文詩なんだということにして。
すると散文詩集「創作ノート」が自動的にできるかなあと思いました。カミユの手帖。太陽の賛歌と反抗の論理。のように一人歩きする創作ノート。
「彼の消息」についてのノート
*残念だけどこれは実話です。
転勤でo市に来たばかりのHさんに招かれて、Hさんの自宅で酒を飲む私たちの前に四歳の彼が挨拶に出てきた時、私にとって彼は果てしのない生涯が今まさにはじまり、永遠のような余生を持つ存在であった。男の子だがかわいらしくおかっぱで年を取ってできた子だからかわいくてしょうがないと、わが子を見つめる両親の瞳は語っていた
やがてわたしもHさんもo市を離れたが、五年後、ある結婚式で再会する。息子は少年野球をやっていてセンターで四番だと目を細めて語る。あのおかっぱの男の子が、打席で真剣にボールをにらんでいる姿を想像して私も微笑む。デッドボールを受けても、次の打席で踏み込んでボールを叩けるんだよとHさんはそれが嬉しくてたまらない。そしてボールと共に果てしのない未来をにらんで、彼の目が輝いていることを私は知っていた。
十年後、社内通達が私を震撼とさせた。「Hさんの息子さんが肺の手術のためアメリカに渡ります。ドナーを待つのです。治療代と現地の生活費で六千万円ほどかかります。同じ会社の仲間として募金に協力を・・・・・・」
あのときわたしが真っ先に思ったのは、彼が助かるためには誰かが交通事故で死ぬしかないのだということ。ドナー待ちというのは他人の死を望むということ。だった。
しかし中学への通学もままならず、自宅で酸素吸入をしている息子に「おまえはこのままではあと一年で死ぬのだよ」と伝えたHさんを思えば誰が死のうとそれは天の助けに違いない。そして死んだ人に感謝するのみ。それらの死と生の巡り合わせに手を合わせて次は自分が犠牲になるのだと決心するのみ。今は他に選択肢はなくアメリカ人の死にわずかの望みをつなぐHさんだった。
私は百円かせいぜい五百円を寄付しこんなことは国がやればいいんだと不平を言う同僚たちを横目に一万円入れて馬鹿と言われたが、Hさんは息子の中学進学に合わせて買った家のローンや自分たちのあらゆる準備を無視して全財産を失ったのだし、もう一度息子を打席に立たせるためなら何だってしただろうし、脳裏にそういうことが焼きついたわたしは独身だったら百万円でも寄付したかった。
その後私は会社をやめて、その後の成り行きを聞くことはなかった。
やがて真夜中のテレビに彼が映る。「臓器移植 H君の場合」空港のゲートに登場した彼に、生きてアメリカから帰ってきた彼に、元のクラスメートたちが横一列に並んで泣きながら手を振って迎える。わたしはその映像を泣きながら見た。死を覚悟しながら異国で一年を送った彼の表情はすでに同級生より大人びて深く明るい。この世のすべてに感謝する彼の両親。臓器移植について、一生この問題と無関係ではいられなくなりました。多くの人のお役にたちたいと思っています。夫婦もまた神々しい表情で穏やかに話す。私はいつまでもいつまでも泣きながらHさん家族の話を聞いていた。
彼は死んでいたのだった。四歳で私たちの前におかっぱ頭で挨拶に出て少年野球で四番を打ち、それから後はずっと病と闘い死と隣り合わせだった彼。彼の両親は一人息子の生と死の狭間で生きるしかなくなった。それはなんと言う変化だったことか。そしてそれは何という人生だろう。そして彼自身は父親の言うようにデッドボールを受けても腰が引くことはなく、勇気と決心を持って次の打席で踏み込んで外角の直球を叩ける人間だったのだ。
* *
わたしはH君の人生に遠くからではありますが接っすることができました。ありふれた言い方ですが大きな勇気をもらいました。そして彼が生きた証の一人になりたいと、遠くから影ながら思ったのです。
Hさん
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