【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

YouTubeチャンネル『世界の名作文学を5分で語る』のブログ版です。世界と日本の名作紹介と様々な文学批評 そして自作の詩と小説の発表の場です

自画像の正体はノルウェーの作家エリック・フォスネス・ハンセンの執筆中の写真

良く自画像で使っている画像
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ネット上のいろんなプロフィール写真に

この写真を使っていたことがあります。

小説を書くし、メガネもしてるしで、知り合いもぼくに間違いなしと思ってくれます。

ほんとうはこれは、ノルウェーの作家

エリック·フォスネス·ハンセンです。

タイタニックをテーマにした

「旅の終わりの音楽」

という小説の作者。執筆中の写真です

 

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ぼくが自画像で使っている写真は

だいぶ前に世界の現代作家特集をした雑誌がって

そこに掲載されていたハンセンさんの写真です

ネット上にはありません

そんなにメジャーな作家ではないのだろうか?

長い間 お世話になっておりました

 

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詩を深く考える

 詩を深く考える①


詩を書く人は多い。

前にも言いましたが、10文字くらい書いて改行して10行から20行くらい書けば詩に見えますから、一億総詩人だっていいんですけど、プロの俳句と素人の俳句、プロの短歌と素人の短歌がはっきり違うように、うまい詩とそうでない詩ははっきりわかります。これは小説にもいえることで、短歌なら57577で書けば誰もが短歌を作ったと言えるのですが、小説にも実はそういう構造としての約束事に近いものがあるけど、誰もそれを練習しない、そんな話を前回書きました。

さて詩には構造としての約束事があるか?約束事とは効果的なこと、作品としての成否を握るほどのポイント、ということですが、それがあるのか?

あるんですね。

だからこれがある詩は素晴らしいし、ない詩は読んでてばからしい。

今私は30枚以上の小説を書くことを条件に小説グループをやっていて、前にもいいましたがいずれサブローグループに合併してもらえばと考えてもいます。で、小説で30枚も書いてもらうと、力量がはっきりわかるんですね。そもそも書けない人がほとんど。小説を30枚以上で完成させている時点で、力量があるとなります。

では詩はどうでしょうか。長ければいいわけでもないけど、ひとつの視座として、長さが書けることは大事です。それは思想性と構造の構築ができるということだからです。では短い詩だと力量が測れないか?実は短ければ短いほど瞬間的にうまい下手がわかります。俳句彩短歌はプロの場合、うまいなあと感心しますね。

Facebookで見かける10行くらいの詩って、まずゴミのような詩です。

下手です。

続く

詩を深く考える②

私は今小説なら30枚、詩なら10編を加入審査の時にお願いしています。実はあれ、詩もやってます。

で、長詩は思弁性と構造の想像力の測りにはなるけど、叙情詩は短い詩、短詩もすごいのはあるわけなので、10編読ませてもらうことにしています。

1編はまぐれがあります。5編だと自分史上最高傑作が5編来るからすごいものばかりになる。

で、10編が自分史上最高作としても、素晴らしい詩を10編も書けたらそれはもう才能だから10編としています。で、10編読むと文体や、思考の傾向や感性の癖などもわかるから、まず素人さんを評価するにははずれないと思っています

この詩のうまい下手っていったいなんなのでしょう?

続く

詩を深く考える③

詩は言葉の力で精神を切り裂くものです。あるいは精神をふるわせるものです。

穏やかにゆりかごのように揺らす心地よいものもあれば、嵐の海のようにひっくり返すようなものもあるし、闇夜に光る稲妻のように、その閃光で周囲を照らすものあれば、太陽のように月のように光を投げかけるものもあります。

つまりこう感じる詩は優れた詩でそうでないのは改行した日記です。

さて、詩が10行あるとします。今から書くことを計算して書いても仕方がありませんが、結果としてそうなっている詩はすごい。

1行目と2行目の間にもう一行ある。

各行に間にすべてもうひとつの行、あるいはもう一つページがあって、

10行なのに10ページ分くらいのことが書かれている

1行目と7行目が響きあっている、3行目が9行目の意味としての伏線になっている。

などなど、無駄なくすべての言葉が他の言葉とオーケストラのように、響きあい、その音響の余韻がまた別の音楽を作り、一遍の詩を読むことで、ひとつの宇宙に浸ることのできる詩。

そんな詩がありますね。

そしてそうではないけどそんな詩を目指している詩をときどき見かけるわけです

続く

詩を深く考える ④まとめ

印象派という絵画の形式がありますね。
自我の出た作品というのは遠近法もままならぬ子どもの落書きですが、しかし印象派のように詩や小説を書くと、全く違うものやまったく違う発想で作品創作ができます。
たとえば、ある小学校の体育の授業中に教室に忍び込んで子供たちの持ち物を見たとします。こう書くと今の小学校は警備が厳重で部外者がそんなことはできないという人がいます。そして仮にの話ですというと、仮の話は興味がないと政治家みたいなことを言う人もいます。救えない人たちです
で、子供たちの持ち物をみて、それを刻銘に書いていくこと、それが詩における小説における印象派的手法です。あれは光だけで具象化させる技なので、それを応用するわけですね
さて、そうやると、すべての子供の家庭の様子や経済力や、子供の好きなことや、幼いながらの人生の歴史などを、30人分くらいかけるわけです。
そしてそのとき、作者の自我が入る余地はありません。
素人は自分のことしか興味がない。そして誰もが興味のない本人の日常的な感覚を日常的な言葉で書いてしまう、そんなものは日記です。
で、子供たちの持ち物の連なりは宇宙を創るのです。べつに教室でなくても、電車に乗ってる人達、ファミレスにいる人たち、なんでもいいのですが、とにかく詩人的視点が輝くとき、すべては光輝くのですね。

そんな詩を読んでみたいと思っています。現代のリアルに生きてる人達の。

小説教本 小説の書き方の目次です

 実はそれなりに小説を書くだけなら、誰でも書けるようになる。

こんな感じで学習すればいい。
1.小説の文体
2.小説文体の原則
   同じことを二回書かない、など10項目くらい
3.小説の構成の原則
   登場した人間や道具など、書いたままにせず必ず処理して決着させる
   伏線を貼る
   起承転結がベースにあること
4.キャラ設定
   登場人物がどんな人間になっているか意識する
   内面でその人を示すのではなくて、癖やしぐさや行動やセリフで示す
   服装や髪型や住まいや食べ物、衣食住を書くことで浮かんでくる
5.風景・情景描写
   情景描写は単なる舞台ではなくて、登場人物をも表現することができる
   情景描写がなければ人形劇でしかない
6.どんな思いを込めるかを考える
7.これらをベースにあとは自分の中の普遍的精神が生きるかどうか、それがつまり才能ということになる
つまり才能以外の6項目は誰でも練習すればできるようになります。
ピアノの練習をすればだれでも弾けるようになるのと同じです。
プロになるかは才能次第。
でも弾けるようにはなる
それは小説もまったく同じです。
どれだけ多くの人が正しい手順で正しい方法を練習しないことか、驚くばかりです
自分には自分のやり方があるとか、自分は基本をベースに応用しているとか、
そんなセリフは1から6が全部できたときにいうセリフです。
もちろん書く楽しさは個人的なものだから、それは我流でもいいのだけど、10枚以上、まして30枚以上のものは、我流では書けません。それはピアノを適当に弾いても雑音にしかならないのと同じです。
つまらなくても、方法論に沿わないと作品になりません。自分が好きなように書いたら作品になる、なんていうのは、膨大な読書によって自然に書けるようになってる人です、村上春樹村上龍平野啓一郎も初作品がいきなり受賞ですがその膨大な読書量が土台にあるのです。

なぜ毎日詩を書くことはできないのか?

 なぜ俳句や短歌をつくるのか?

それは基本的に自分の心情を、世の中の出来事や自然の美しさに託して表現するとき、57577という枠組みに沿って書けるから、楽であり半ばゲームの楽しさがあるからです。俳句も575の中で同じことをやります。

この長さだと思想的なことは書けないから日本では古来、思想的なことは漢詩というこれまた五言絶句や七言絶句という枠組みの中で、半ばゲーム的につづられていました。

さて現在は、漢詩を作るための素養を持ってるのは学者さんくらいで一般人が作ることは不可能に近いです。

さりとて、短歌的なこと、俳句的なことでは収まらず、本来なら漢詩で書きたいことはたくさんあります。

すると、どうするかというと、明治以来の日本語では、これを近代詩、新体詩の形で表現するわけです。今私たちが目にする詩とは新体詩のことです。

さて、この詩なるもの、5行程度や10行程度書いても形の上では詩ですから、いくらでもその程度の長さの文章は書けてしまいます。

なので書くのが好きな人はほんとに毎日でも書いてそのままSNSにアップしたりします。が、SNSで素晴らしいなあと思ったのは、岩間さんと坪内さんとトミタカさんの3人が書いた詩だけでした。もちろん好みの問題もあるのですが同様にレベルの問題があるのです。

簡単に量をこなせるので、誰でも書ける。でも良い詩はほとんどの人が書けない。俳句や短歌は誰が書いても1年に1首から5首くらいはすばらしいものができたりしますが、詩はそうはいかず、下地のない人がいくら書いても決して良い詩はできません。

そもそも枠組みのない文章をアドリブと感だけで書いて、素晴らしいものができるわけはありません。小説でも詩でも、どれだけ本を読んだかによって相当創作は作用されます。というのは出だしにしても、次の行にしても、どんな意味の展開にするとか、どんな言葉使い、言い回しにするとか、どう暗喩を響かせるとか、こういうのは、自分の中に引出がないと、ほんとにつまらないものになるからです。いくら感性を磨いても、それは我流でいくらボールをけってもサッカーがうまくならないのと同じです。


なので、新体詩を毎日書くことなど不可能なのです。その詩の形式から作らないといけないのです。10文字くらい書いたら改行して、10行くらい書いたら感性というのは、ブログで、頻繁に段落つけながら何か書くのと同じで、それは詩ではありません。


ということです、ひとつの詩作品を完成させるには2週間はかかると思います。

しかしそうやってできた詩はぜひ読んでみたいと思います。

現在に生きる知ってる人の文学作品は、あるレベルをクリアすれば、本当に詩でも小説でも、古典に劣らず楽しめる読み物に間違いありません。


さてその読書ですが、たくさん読めばいいというものでは全くありません。一冊の中原中也しか読まないけど、もう100回は読んでいて、中原中也の詩の世界にいると幸せだ、とか、堀辰雄風立ちぬのことならなんでも知っているとか、そういう愛読書、魂の愛読書が一冊でもあればいいのです。

詩は書くけど本は読まない、という人の文章の底が浅くなるのは、我流でボールをけり続けるサッカー少年の悲哀です。


実家から持ち帰った大量の本

 実家から本をたくさん持って帰った。ざっと50冊くらいか。それまでにもちょこちょこ持ち帰っていたので相当持ってきている。

昔は本屋に行くと必ず本を買ったものだ。で、本が増えた。今ではよほどでないと買わない。なぜかというと、買った本の末路を知っているからだ。

多くの本は一回読まれてそれきり読まれない。ひどいものになると積まれているだけだ。本にとっての本懐を考えたとき、やはりぼろぼろになるまで何度も読まれることだと思う。そうなると、何度も読む本かどうか確信が持てない限り買わないことになるわけだ。でも私が買わないために、本屋にずっといて、やがて返本されてしまうかもしれないと思うと、読まなくても買っとくべきだとも思ってしまう。

また、これまで私は二度ほど蔵書の大虐殺を行った。大量に古本屋に売ったのである。すると読んでいようがいまいが、本は再び生き返るような気もするが、逆にだったら、最初から古本屋で買えばいいとなる。私の好む本はだいたい古典が多いのでBOOKOFFなら100円で買えるのである。

まあ、いずれにしても本が周りにたくさんあると楽しいものである。


夏目漱石VSゲーテ

 夏目漱石という文人の、私たちは半分しか知らない。

それは例えて言うと、

ゲーテの詩集を一切読まずに、知らずに

ゲーテとはファウストとウィルヘルムマイスターと親和力

タッソーやエグモントを書いた作家ですと言うようなものです

それはそれで偉大な仕事ですが、しかし詩のないゲーテって

まるで違ったイメージになると思いませんか?

そして夏目漱石という作家について私たちが持ってる印象というのは

まさにこの詩を書かないゲーテ像なのです


以前も書きましたが

夏目漱石は日本史上最高の漢詩人

夏目漱石の漢詩超訳

夏目漱石は偉大な漢詩人でした

平安時代以来、漱石に匹敵する漢詩を書いた人は室町五山文学という大山脈だけだったと

古井由吉さんは断じています。

こんな偉大な詩人漱石漢詩を私たちは普通読みません

漱石漢詩集というのも出版はされてますが、研究者でないと読まないと思いますし

その多くは、漢詩の研究であり味わうための本ではありません

ネットで検索しても学術本みたいなものばかり。

YouTubeで検索したら4つありますが、そのうち二つはぼくの動画です(笑)(笑)


そもそも私たちはもう漢詩を味わえないのです

たとえばゲーテ全集があったら第一巻は「詩集」が定番です。

しかし漱石第一巻は「吾輩は猫である

ではないでしょうか?

これが漱石全集第一巻が「漱石漢詩集」になるとすごいことだと私は思うのです。

ほんとうに漱石漢詩は素晴らしく

思想的葛藤や深みは、萩原朔太郎三好達治以上ではないか?とさえ思えるのです。

10月21日 無題

天を失った私の歌

私が天の法と理を見失うとき

「大愚」という古来よりの真の理をも

やはり見失うのだと 私は知った

道をつかんだと思ったとたん

道は私から離れてしまう

聡明であればあるほどこの世では心は死んでいくのだ

逆に魔界では正義は生き延びていくものだ

人の心とは人間界と魔界において反抗するように作用するのだ


黄金の剣ならば

地に投げ捨てても美しい音色を立てる

夜光の珠なら宙に砕け散っても光り輝く

しかし私は

投げ捨てられ砕け散ったら何もない

ただ一人長く涙をたたえてたたずむことしかできない

そんな私の心の姿は

両親を亡くして泣くことも忘れて呆然と立ち尽くす幼子のようだ