【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

YouTubeチャンネル『世界の名作文学を5分で語る』のブログ版です。世界と日本の名作紹介と様々な文学批評 そして自作の詩と小説の発表の場です

私の読書記録ノートは死を越えていく

 今手元にないから大まかな数字だが、私は平成5年から読書の記録をノートに書いている。

もう27年が過ぎた。

記録の内容は、読了の日付と本の名前、作者の名前程度の走り書きで、たま~に内容や感想を書いている。

一冊のノートの2/3くらいしかまだ使っていない。

一番すごいと思うのは、普通のノートがすでに27年捨てられずに存在していることではないかと思っている。

さて、このノートを読み返すとその折々の人生の出来事を思い出すスイッチになる。日記というのは、なにも出来事の記録である必要はない。なんでもいいから同一カテゴリーのことを記録すれば、思い出のスイッチになるのだ。

だからブログでレシピの紹介や鳥の写真や、庭のガーデニングなどに特化して延々と書いてる人がいるがいい思い出発火装置になるだろうと思う。




現在では私は自分にかかわることは基本的にはすべてWindowsのonedriveというcloudと、グーグルのcloudに入れているので、自分に関わることのすべてにスマホ経由でいつでもアクセスできるようになっている。

が、しかし、だからといっていつでもそれを見たりはしない。むしろやっぱり紙に書いた読書記録やらなんやらをなつかしく読み返すのだ。

これは人間の特性なのか?私の世代の特性なのか?cloudは便利だが自分の手元にある紙に勝るものはない。空襲や火事や泥棒によって失わなければ一番いいが、何が起こるかわからないから一応全部撮影してグーグルフォトに入れてもいる。

あと何ページ分の読書記録を作って死の門をくぐるだろうか?



私はいつ芥川賞作家になるのをあきらめたか?

私はいつ芥川賞作家になるのをあきらめたか?

芥川賞を取るんだと心に固く誓ったのはいつだったか?
たぶん高校1年のときに、村上龍限りなく透明に近いブルーでデビューしたときだ。
当時として、史上最年少での受賞であり、村上龍がテレビにでていろいろしゃべるのも恰好よかったので、ファンになり、自分もあんな風に作家になるんだと思ったものだ、しかしファンとしての対象は立ち居振る舞いとしての村上龍であり、作品であるブルーはひとつも面白くなかった。延々と黒人と日本人女性が絡みつく描写をしていることしか覚えていない。
さて大学になると趣味は文学で将来は芥川賞作家になるつもりですと、自己紹介の機会があるたびに言ってたので、面白がられてじゃあもし受賞したらギターを買ってくれとか、車を買ってくれとか、銀座の店を貸し切りで飲もうとか、いろんな約束を安請け合いした。だからもし私が今後芥川賞を受賞して、昔の友達が自分たちの約束を覚えていてその権利を主張するなら、わたしは破産だ。(笑)
社会人になっても芥川賞作家になるつもりでいた。どこかの時点で受賞して、惜しまれながら会社を辞めていく時を待った。
さて、いよいよ35歳を過ぎて真剣に小説を書く10年が始まった。毎年どこかに応募しては落選したが、一度だけ予選を通過し5回ほど地元の新聞に紹介され、作家としてラジオに出演したこともある。
芥川賞はとれなかったが、まったく才能がないわけでもない、そんな状態にそれなりに満足してやがて小説も書かなくなった。
作家デビューで遅いのはモーパッサンの42歳、その時まではまだ大丈夫と若いころからずっと 思っていたが、やがて42歳を超え、最後の砦のレイモンドチャンドラーも53歳の本格デビューだったがそれすら追い抜いた。
最近は文学ユーチューバーになって自分の文学ブログと連動して、様々な作家や詩人を紹介しながら詩や小説の一部の朗読などをしている。これが楽しい。そしてSNSの文学グループで小説の批評などをやっているがこれも割と楽しい。
芥川賞は取れなかったが一生モノの趣味として文学は残ったのだ。趣味ではない。生涯の友のようなものだ。芥川賞を目指していてよかんたんじゃないかなと思う。

土佐日記を楽しく読む方法

 



土佐日記は日本はつのひらがな文学です。
なかなか退屈な読みものとおもっていたのですが、この本で読むと
笑いながら読めます





平安古典は世界文学の奇跡ですね
9世紀にあんなレベルのものが、大量に生まれるなんでありえない。
ヨーロッパにはラテン語の聖書があるだけだった。


現実より創作が人生であるレベルの作家について 海部

 現実より創作が人生であるレベルの作家について


文学創作をするものは、この世の出来事が架空であり、文学創作の世界が現実である、そう小林秀雄が言いましたが、これは小林の意見というより、多くの作家や 詩人を研究した結果そうとしか思えないという感想だったのだと思います。
ドストエフスキーがどれほど賭博で困窮していても創作する現実世界は全うであり、実人生の出来事など露ほどのこともない、そう断じていました。

なかなかそうは思いないものの、要は普通の仕事だって熱中すればほかのことは(たとえば家族のこと)は忘れてしまうし、日常的なもろもろ忘れるから、文学に限ったことではないかもしれません。
ただ文学創作が仕事ならば、一番好きなことを仕事にしているし、それは価値ありと思えることがほとんどだから、それはもう現実の人生などどうでもよくなるのかもしれません。
最近では現実の人生の他にSNS上の人生を生きる人もいますが、SNS上の出来事を実人生より上位におく暇があったら、創作をすべての頂上に置くように刻苦勉励すべきでしょう、そう思います。

成長した子供たちと遅い初詣に行ってきました

子供は二人とももう20代半ばを越えました。二人ともコロナのためにリモートワーク。

で、ちょっと外出しようかと福岡県の糸島半島に出かけました。

普段離れて暮らしているので二人と同時に会うのは2年ぶりくらいになり、楽しいひと時でした。

 

まずはドーヴァーと言う雑貨屋兼画廊に。アメリカ人のドーヴァーさんという画家が開いているお店です。店内には所せましと彼の絵と無数の雑貨がおいています。結構有名な画家らしく大きな絵は噂だと一枚100万円は超えるらしいです

でも素人には何よりこの店の看板犬ガイアちゃんがうれしい存在です

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イギリスの犬だったか?背中の毛が逆方向に生えているという珍しい犬種で日本にはこの子、1頭しかいないんじゃないかな?

人懐こくて楽しい犬です

そして

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あと二人の猫もそれぞれ性格が違って楽しいですね。ほとんどこの3匹と遊ぶだけのお客さんもいます

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入り口の薪ストーブで何とか暖を取ろうとする猫!

それから近くの桜井神社に。

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きれいにおいていました。ちょっとした心遣いがうれしいですね

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階段を上って、伊勢神宮の外宮としての社へ。

この神社の社は平地にあって、伊勢が階段上です

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本堂までにふたつの建物があります

逆から見ると

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神様側からの視点です。なぜかこっちのほうが神さびてます。

そしてお参りが終わると近くの海岸沿いの 糸島茶房というレストランで食事をしました

季節の野菜とカキのパスタ。糸島では地元のものを使うのでそこがうれしいです

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めっちゃおいしかったです

 

 

ということで、半日の間、子供たちと過ごせてとてもハッピーでした。

また今年も何かと大変ではありますががんばっていこうと思いました。

 

 

 

伊東静雄 「 曠野の歌」|死と生の根源的風景をうたい上げた世紀の名詩

 曠野の歌

わが死せむ美しき日のために
連嶺の夢想よ! 汝なが白雪を
消さずあれ
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
息ぐるしい稀薄のこれの曠野に
ひと知れぬ泉をすぎ
非時(ときじく)の木の実熟うるる
隠れたる場しよを過ぎ
われの播種(まく)花のしるし
近づく日わが屍骸(なきがら)を曳かむ馬を
この道標(しめ)はいざなひ還さむ
 

 
 
あゝかくてわが永久(とは)の帰郷を
高貴なる汝(なが)白き光見送り
木の実照り 泉はわらひ……
わが痛き夢よこの時ぞ遂に
休らはむもの!
 

好きすぎて動画を2本アップしました

 

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渡辺淳一の「流氷への旅」読中感と読後感

 渡辺淳一の小説を読んでいる。渡辺淳一といえば、失楽園愛の流刑地が有名だが、あれらは性的描写が過激であるということ以外、それほど面白い話でもない。

私が今読んでいるのは 流氷への旅 である。

これは大学時代にキャンプをするサークルにいた私が毎年夏にサークル仲間と北海道をアタックザックをしょってお旅をしたとき、みんなで冬の流氷はすばらしいのだろうなと毎回話して、実際流氷を見に行った奴らもいたが、私は行かずに流氷の本を買ったということだった。

以来、40年が過ぎたがいまだに読んだことがなかった、つまり40年も積読すのすえ、ついに文字と言葉は溶解したのである。

私は日本の現代文学の場合、面白いかどうかは最初の50ページで完全に決まる。あとは水戸黄門ではないが、思った通り面白かったなで終わる。だから実は一番感動するのは、50ページほどを読み終えたところだ。

面白いのである。今や230ページほどをよみ、あと300ページくらい残っているがもう面白いというのがわかったから読まなくてもいいくらいだが、面白くて続きも読んでいる。

的確な打てば響くような風景描写、期待通りの人間模様の展開。そしてワンセンテンスは短く文体は軽妙。素晴らしい芸だと思う。


動画:世界の名作文学を5分で語る

さてここからあとは読了後の感想である。
終わる寸前まで面白かったのだが、なんともあっけない、驚くほどの、ありえないほどの、終わり方をしてしまっていた。
もっともっと盛り上げて感動の渦に投げ込む終わり方ができたはずなのに、ずっと引っ張ってきた謎の部分とそれにもとづく登場人物の行動と人間相関図が、すべて紐解かれて世界は新たな時代を迎える、そう思っていたのだが、いやあ、なんだこれは?うそだろう?
この期待外れ度は、すごい。世紀の腰砕けだ。

ということで楽しんで読んで楽しく読み終わりましたが、納得できない形で終了となりました。