【ブログ版】世界の名作文学を5分で語る|名作の紹介と批評と創作

YouTubeチャンネル『世界の名作文学を5分で語る』のブログ版です。世界と日本の名作紹介と様々な文学批評 そして自作の詩と小説の発表の場です

小説『ふたり』下書きデッサン

 

「ふたり」

 

神木はカーナビと前方の道路を素早く見比べながら、

狭い路地を運転していた。

 

古い街並みに情緒を感じながらも

、助手席の千草のおしゃべりに少し

うんざりしかけていた。

 

普段は千草と過ごす時間は穏やかで

、2人の会話もそんな時間にふさわし

く、

緩やかに満たされて流れるものだった。

 

この半年はそんな逢瀬を重ねて来た。

 

千草の夫の一周忌が過ぎたのを機に

、思い切って旅行に誘ってみた。

 

半ば予期していたこととはいえ、二つ

返事でOKをもらった時は嬉しかった。

 

そして、神木のイメージでは千草にぴ

ったりの城下町に車で一泊旅行の約束をした。

 

その日が来るまでは夢見心地で日々が

過ぎたが男はいくつになっても女に対しては

少年のままだと実感した。

 

 

 

 

 
 

 

 

そして、千草。ここ一年の出来事を振り

返ってみたりしたが、ぽっかりとあいた空白

に退屈だけが残っていた。

 

その退屈な空白を、神木が埋めてくれる

ような気がして、暇潰しとして誘いにのって

見たのだ。

 

不良でもなく、かといって特別な紳士

でもなく、しかし、いつも絶妙なタイ

ミングで

声をかけてくるこういう奴は、これか

ら私の大事な存在になるのかもしれない。

 

大きな城のお堀に掛けられた橋には

豊かな水が流れていた。

 

こういう所を訪れる人たちというの

は、どうしてこうもチグハグな感じ

カップが多いのだろう。

 

親子ほど年の離れたカップルが楽

しそうな雰囲気で歩いてくる。

 

 

 

 

 

 

 

その二人が通り過ぎるのを待って橋を渡り

、城の外堀沿いの信号機で停車しか

けた時だった。

 

前を行く車のナンバーに目が止まった。

 

…前妻の誕生日と同じ番号…。

 

神木は一瞬何気なく助手席の千草に眼

をやった。

 

外掘を縁取る桜の木に見とれている彼女

を横眼に見ながらこの場に不要な想

い出を封じようと軽い咳払いをした。

 

信号が変わりアクセルを踏んだ途端、

今度はポケットの携帯電話が振動し始めた。

 

…きっと娘だ。

 

不意に神木は自分の携帯を以前勝

手に(勝ってに)見て、千草を知った娘が言

った言葉を思い出した。

 

「あの女と似ている…」

 

自分を捨てた母親への憎しみと父

親に対する嫉妬のような蔑みがこもっていた。

 

「あの橋ね。入り口」

 

ナビの音声より先に千草の喜びに弾んだ声が響いた。

 

神木は咄嗟に我に返り、唾を飲み込むようにして、

 

「うん」と一言返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホテルについた。

 

神木と支配人は古い知り合いらしい。

 

受付が終わるのを、千草が神木の後

ろでじっと待っていると、手続き

を終えた支配人が神木に耳打ちをした。

 

「きょうは、お忍びですか。」

 

神木は、「いやあ」と、満更でもな

さそうな顔をして、さあ、というよ

うにこちらに目をやった。

 

日が暮れた。美しい街並みにとば

りが下りて、もの寂しさにつつまれていく。

 

神木は一人グラスにワインを注ぐ。

 

千草は部屋に着くと、さっさと

ベッドに入り、眠ってしまった。

 

神木は昼間、千草の会話にうんざ

りしたことを思い返していた。

 

普段はそんな感情はうまれなかっ

た。今日は違う。ひどい倦怠を感じた。

 

確かに自分自信の家庭の問題もある。そこに気をとられてイライラし

ていたのかもしれない。

 

だが、千草が会話の途切れる気まず

さを避けるために懸命に話かける姿

に煩わしさを感じたことも確かだ。

 

 

 

翌朝、ホテルを出て狭い路地を抜けだし

、ようやく城跡公園について、

二人はぶらついた。

 

「あら」と千草が楽しそうな声を

出して、神木がその指さした先を見る

と犬と猫の一団がいた。

 

「里親の会ね、どの町にもある、

尊敬するわ、やってる人たち」

 

たくさんの犬と猫が集団生活の抑圧

から解放されたかのように小気味よく動いていた。

 

「かわいい、見ていきましょう」

 

 

 

 

千草は無邪気に笑いながら先頭にいた

犬にほおずりする。

 

千草と自分より先にハグするその犬を

羨まし気に眺めながら、神木は10歳の

夏を思い出した。

 

家を出るとき、近所の子供たちの

ヒーローだったダルマシアンのミーシャは

置き去りにするしかなった。

 

きっと誰かが助けてくれると父は言ったが、

夜逃げに追い込まれたのは誰も

父を助けてくれなかったからじゃないか

と思ったので信じられなかった。

 

1歳だったミーシャはダルマシアン。

右目の上にひときわ大きな黒の斑点、

左目の外側にもひときわ大きな斑点が

あった。そして事故でしっぽが半分切れていた。

 

神木は千草とハグの終わった犬の目

元を見た。そしてちらりとしっぽを見た。

 

二つの生き物はじっと見つめあった。

 

「どうしたの?」

 

神木の目に涙が溢れているのを見て千草が驚いて言った。

 

 

 

二人は帰途についた。ややこしい街並

みをぬけるとすぐに高速のインターに乗れた。

 

 あとは150キロ先の自分たちの町ま

で軽快に走るだけだった。

 

 千草は眠っている。当たり前だがすや

すや寝息を立てていると静かだ。こ

んなにしゃべる女だとは意外だったが

、ミーシャそっくりの犬が長いしっぽを

ピンと立てて神木と見つめあってる時

は、ずっと黙っていてくれた。それだけで

いと神木は思ったのだ。

 

 千草は寝たふりをして、神木のことを考えていた。

 

 ちょっと軽めのおしゃべり好きな男だ

と思っていたがダルマシアンを見な

がら涙を流したことには感動した。過去

も素直に話てくれたから好感度はグンと上がった。

 

 それに昨夜は、ホテルのフロントで

支配人と怪しげなアイコンタクトをとっ

ていることに気づいて、わたしは嫌な

気分になって女の日だと嘘をついてベッドを拒んだ。

 

 でも特にがっかりするでもなく、

怒った風もなくこれなら次回は嘘をつか

ないでもいいかなって思った。

 

 二人の心が微かに触れ合おうとしていた。

 

 千草は目を開けて神木の横顔を見た。

 

 ちょうど太陽が視界の正面に来た。

 

「まぶしいっ!」

 

二人は同時に言った。

 

 

 

 

(了)

 

ホメロスオデュッセイアを通読した 古荘英雄

ホメロスとはなんだ?

昔は世界文学全集を読む人が今よりはずっと多かった。

だいたい、その第一巻はシェイクスピアで第二巻がゲーテであったのではないかと思う。

ところが、一部の全集では

第一巻ではホメロス叙事詩だった。

もしくは

だった。

ホメロスは言わずとしれた古代ギリシャの吟遊詩人で

この二つのギリシャ英雄叙事詩をまとめ上げた天才詩人と言われる。

ヨーロッパ文学の根源的作品でもある。

アイネーエスという大作もホメロスの二番せんじである。

またトルストイは晩年ホメロスだけが詩人であるとシェイクスピアをこき下ろした。

ゲーテホメロスこどが詩人であると敬服しており

若きウェルテルの悩みではウェルテルはことあるごとにホメロスを読んでいた。

またシュティフターの作中人物もホメロスをよく読んでいる


神学校などの入試には古代ギリシャ語とラテン語が必須だが、

古代ギリシャ語の読みものとしてはプラトンギリシャ悲劇よりも

ホメロスこそがギリシャ語の神である。

またフランスでは20世紀後半に至るまでエコールノルマルという

日本の東大にあたる大学では

古代ギリシャとラテンの古典を学ぶのが主であり

これは東大で四書五経を学ぶのが主であるというようなものだ

ホメロス

ギリシャ語として六脚韻=ヘクサメターを駆使して書かれていて

そのリズムの響きを聞くとギリシャ人はアテナイ女神やゼウスなどの声や姿を

幻聴や幻視で見聞きしていたという説まである


ヨーロッパ叙事詩文学の源流地

日本文学は短い文章を職人技的に磨くので短歌や短編小説などが主流となるし、徒然草方丈記などの随筆も一章づつは短い。

叙事詩と言われるものは平家物語だが、あのようなものはそれほど多くない。

だがホメロスイーリアスオデュッセイアはわれわれが平家物語を見聞きする感覚ににているかもしれない。

トルストイはその戦争と平和、アンナカレーニナなどの長編はもちろん自分の全作品をホメロスの匂いがする、というようなことを言っている。

ホメロストルストイを海にたとえ、叙事詩精神がヨーロッパ精神であると語ったのはトーマス・マンであり、彼もまたヨセフや魔の山などの叙事詩的作品を描いた。トマス・ハーディが一番書きたかったのは詩でも小説でもなく叙事詩だったという話もある。ナポレオン戦争に材をとった「覇王ら」などはそうしてできた作品だる。

はじめてホメロスの面白さが分かった


若い頃読んだときには、すべての登場人物と神々に、煌めく眼のアテナイ神とか、智謀に飛んだオデュッセウスとか勇猛なメラネオスとか、必ず形容しがつくので読みづらかったが今はそれが古代人の生活を感じさせて心地よかった。

また神々が登場し、しゃべったり助けたりするのもリアリティがないと思っていたが、今は逆だ。古代ギリシャ人にはそれが現実だたったのだ。彼らはその思念のうちに現実に神神がそのようようにかかわってきたのだと認識して生きていた。だから神々なしに人間はいないのだという、そういう世界なのだということがわかた。だから空想物語ではなくて、古代ギリシャ人にとってはこれは現実の話だったのだということがとてもよくわかったのである。


そうしてみればイーリアスもまた面白いことだろうが、いまのところはオデュッセイアをさらにじっくりとしばらく味わって古代ギリシャを垣間見たいと思うのである。

実際、ストーリー展開から細かいプロットから、これを紀元前200年頃に仕上げたというのはあり得ない、天才の中の天才だと思った。

ホメロスのオデュッセイアを超名作と思う理由  古荘英雄

ホメロスの表現の特徴が、昔はなじめず読むのを妨げていた。

それは誰かが話だすときに

人であっても神々であっても

必ず形容の表現が入ることだ。

必ず入るのである。


思慮深いオデユッセウスが言うには

利発なテーレマコスが言うには

運命を動かすゼウス神が言うには

輝くまなこのアテネー女神が言うには


という感じで必ず入るのである。

ところが

この世界にうまく入れると

この前置きの説明表現が実に奥深く感じる。




ワーグナーのライトモチーフと同じなのだ。

つまり

その人物が登場するときには必ずその人物用の曲が流れるというあれだ

このライトモチーフはトルストイも多様し

トーマス・マンも多様する。

小説を音楽的にする手段としてなくてならないものだという。


マリアの口びるの上の産毛が・・・・

という風にマリアが出てくるときは、折に触れてさりげなく産毛を書くのである。


遠くホメロス叙事詩にまでこの手法はさかのぼるのである。



もうひとつは

アラビアンナイトもそうだが

かつての物語というのは明らかに長い夜の暇つぶしに

今日はおまえ、明日はおれ、見たいにして皆が話をするという習慣が

人類にはあったに違いないということだ。

スマホもインターネットもテレビもラジオも本もない時代

夜、何をしていたかというと

話をするのだ

そしてどうもアラビアンナイトホメロスを読むと

旅人は

迎えてくれた主人に旅先の物語をするようなのだ

それは面白くなくてはならない

どうせ

遠い見知らぬ国で起こったことだ、

おもしろおかしく語り受ければいいのだ


オデユッセウスのなかでも

この人は嘘はつくないだろうと主人が作り話の壮大さをかばうシーンがある


そうやって記憶をたどればイングリッシュペイシェントの中でも

女主人公が砂漠で順番に物語を語るシーンがあった


塩野七生もオデユッセウスについて書いていたが

これは妻の元に帰る前に遊びに遊びんで帰りが遅くなった夫が

言い訳のための作り話として語った漂流談だということだ

そう思って読むとそうとしか思えなくなる


思わず朝帰りになってしまった夫が

妻に向かって

実は

昨日は目の前でひったくりにあった女子大生がいて

困っているのでお金を貸して警察を呼んであげて

それから一緒にバッグなんかが捨てられてないか探してやってるうちに

終電がなくなり

その子と別れてからはファミレスに入ったら強盗がきて

みんなで犯人と戦ってるうちに

眼鏡を無くしてしまってそうこうするうちに朝になったんだ


こんな話とオデユッセウスの話は

実はそっくりなのかもしれない

帰ってみると妻のペーネロペイアはとても大変な状況になっていた

遊んでましたとは

口が裂けても言えずに

窮地に陥って口から出まかせを言った

現に作中でいくつも長い作り話を嘘ついてしているのである

全部そうなんだろうと

ホメロスのオデュッセイアを読んでいる 古荘英雄

ゲーテの「若きウェルテルの悩み」でホメロスを知った

若きウェルテルの悩みと言えば

昔は誰でも知っていたし、

ストーリーくらいはみんな知っていたし

読んだ人も多かった。


失恋してピストル自殺するのだが

今時は失恋しても自殺をせずストーカーになるから

読む人も減ったのかもしれない


さてそのウェルテルの中で

ウェルテルが川辺や森で読書するときに

必ず読んでいるのがホメロスでした。

へえ~!そんな古代ギリシャの詩人がいるのかと思いました。

やがて

ぼくも成長し

ゲーテとの対話」などを読んでみると

ゲーテは人類最高の詩人としてホメロスを想定しているようなのです


そしてまたトルストイについていろいろ読んでいると

彼はその

幼年時代」「少年時代」「青年時代」という若い頃の作品について

「つまらぬ謙遜なく言えば、これらはホメロスに匹敵するのだ」

と語るのでした。

後の「戦争と平和」などは、

当時のロシアにおける「現代のイリアス」のようですね


ホメロスの作品はトロイア戦争を材とした「イリアス」と、その戦後、トロイの木馬の考案者のオデュッセウスが帰途で苦労する話としてのオデュッセウスの二つです







いろいろ読むとホメロスはヨーロッパ文学に圧倒的な影響を及ぼしている

晩年のトルストイ

シェイクスピアを全否定してホメロスのみが文学であると言ったし、

(晩年のトルストイは少し異常でもあったのですが)


オーストリアシュティフターなども、

教養というのはギリシャ語でホメロスを読むことだと言っています。

あの六脚韻=ヘクサメターギリシャ語が歌われると

人の脳に幻覚を生じさせるという説まであって

つまりは古代ギリシャ人は

ホメロスの六脚韻を聞くと

あたかもDVDでも見るかのように

動画を頭の中で

見ていたという部厚い研究本もありました

つまりゼウスもアテナイ女神もアポロン

ポセイドンもみな集団幻想で見えていて声も聞こえていたのだと

そんな壮大な仮説の本で

めちゃくちゃ面白かったです(余談)



ところで

トーマス・マン叙事詩としてその小説を書いています。

「詩の時代なら詩を書いていたが今は小説の時代だから小説を書いている

でも自分は本来は詩人だ」

と言っています。

「ただし、自分はドストエフスキーのように黙示録的なものではなく、

ホメロスゲーテトルストイのような

叙事詩精神で書くのだ」

という意味のことを繰り返し述べています。

それはもうほんとに繰り返しあちこちで述べています。


つまり、

ヨーロッパには

ゲーテトルストイのようなホメロスの後継者と、

ドストエフスキーニーチェのような、

聖書的黙示録的な深堀をする人たちの後継者がいるというのですね。

ギリシャ的精神と聖書的精神

そしてニーチェなどは聖書的精神をくそみそに言うわけです。

アンチテーゼとして。


そしてこの叙事詩的精神は、

日本では黙示録精神に比べて流行りません。

叙事詩的精神を感じるのは

どうも日本人には不向きなようなのです。

短い歌や短編小説を職人的に仕上げるのが日本文化であり

おおざっぱな文体で大河のように流れていくようなものは

なじまない


叙事詩精神とは海

トーマス・マンはアンナカレーニナの評論の中で

この小説は海であり

だから海の精神、叙事詩的精神であるというのです。

寄せては返す

そのように

叙事的物語は変化がなく

それでいて確実にいつのまにか変化していく

つまり人生そのものが叙事詩的なのであると

さすがドイツ人だけあって

徹底してこういうことを語りつくします。



そしてオデュッセウスの再読です

今回実に40年ぶりくらいに再読しています。

前に読んだ時のことなどほぼ何も覚えていません。

前は古典だから読まなくちゃ!!

そんな義務感だけで通読しました。

当時は若者が読むべき100冊!みたいな選定図書がありました

まあ実際読む人は少ないですが

ぼくはかなり読んだ方でしたね。





ところで

今回オデュッセウスを再読するきっかけとなったのは


①大好きなシュティフターの小説「晩夏」で主人公のハインリヒとその父が暇さえあればホメロスはじめ古代ギリシャの作品を読んでいた


②塩野七尾さんが、

なぜヨーロッパ人はオデュッセウスを好むか?

というタイトルでエッセーを書いていたのを思い出した。





③風の谷の「ナウシカ」という名は

このオデュッセウスに登場する姫の名です。

オデュッセウスを助けるナウシカ姫がいて

自分を助けてくれたナウシカ姫に

オデュッセウスが別れの言葉をかけるシーンは名場面です


④何と言ってもホメロスは愛好するトーマス・マントルストイゲーテなどの源流だから。


⑤20世紀文学を変えた金字塔。ジェイムズジョイスの「ユリシーズオデュッセウスの英語読み)」はまさにオデュッセウスをモチーフに描かれている。





で、

まだ最初の50ページほどしか読んでいないのですが

とても面白い。

今回は若いころと違って

この物語を味わっています。

物語とはこういうものだなあと思いましたね。

この調子で先を長く読み進めていけば

叙事詩的精神を感じることができそうです

そうれば最高の読書体験になることは間違いない


とまあ、

このような話はほぼ誰に話しても理解されないことなのですが(笑)

自分の中のひそやかな楽しみであり

読書の進行をぼく自身が一番

楽しみにしています







【ぼくらの人生のラプソディ】 クィーンのフレディ・マーキュリーが最後にボヘミアンラプソディーを歌う 海部奈尾人

前書き

ボヘミアンラプソディーを見た。

単純に感動する。最後のウェンブリーのコンサートが、それまでのフレディの人生とクイーンの音楽ををなぞるようになっている。




******************

ボヘミアンラプソディを聞きながら触発されて書いた自分の詩です。中身は関係ないけどぼくとしてはボヘミアンラプソディーを聞きながら読み返したい
***********************



【ぼくらの人生のラプソディ】

かあさん

生まれた時 ぼくはみんなと同じように

泣いていた

そして幼いころはみんなと同じように

かあさんを見ると笑っていた

嬉しくて ほっとできて

ぼくは微笑んでいた 

かあさん

いつからか何かがずれてしまった

今は失敗した人生で

多くのものを失いすぎて

何を失ったかさえ思い出せない

人づてに聞いたのは

地位も財産も妻も家も友人もみんな失ったみたいだ

かあさん

小学校では喧嘩が強すぎていじめられた

力はあるのに優しすぎて

子猫が道端で死んでるのを見ただけで

わんわん泣いたりした

中学では不登校になった

あの頃は先生を信じたかったが

無駄だと知ってショックだった

できれば自爆テロで校舎ごとふっ飛ばしてクラスメートなどというしらけた言葉の持ち主たちと死んでしまいたかった

かあさん

ぼくはどこで間違ったんだろう?

ぼくはいつまでも笑って微笑んで

みんなが楽しく子猫も楽しく

暮らしていけることしか願っていたのに

なぜぼくは笑えなくなったんだろう

間違っているのは世の中のほうだと

叫んで人を殴り殴り返され

病院で母さんに再会したこともあった

間違っているのは世の中の方よと

母さんはぼくをわかってくれていた






かあさん

今はわかる

真実が

ぼくはほしかっただけなんだ

かあさんがぼくの誕生を喜んでくれたように

たくさんの人が自分の子供が生まれると

喜んでこの子のためなら何でもすると思っているのに

なぜ他人にはそう思えないのだろう

そんな愛された子供たちが

徒党を組んで人をいじめ

残酷な殺人を犯し

他人のお金を奪い取り

そうありたいというささやかな願いを踏みにじる

かあさん

真実を

求めてぼくは歌った

自分の行くべき道を

自分のいるべき場所を

生まれたときから求めていたんだと

最初はそれは全部かあさんだった

かあさんから離れて

ぼくはどこにも

真実をみつけられなかった

今も真実は意味不明の謎の国だ





そして

子供たちよ

ぼくは気づいたのさ

子供たちよ

ぼくがそうであったように

真実を求め傷つき憎み

君が行き詰まり助けてと叫びたくても

プライドとあきらめで声を出すことも忘れてしまった子供たちよ

真実を今

ぼくは知った

理解されぬ

孤独と寂しさと絶望を抱えて

何かを求めて夜道をさすらうのが

人の真実の姿なんだと

ああ こんな暗い夜道をさっさと歩き通して

温かいシチューが用意されたかあさんの食卓に

戻りたくても

真実は夜道と寒さと震える手足なんだ




かあさん

ぼくはいま伝える

歌にして

この孤独と

後悔と

絶望と

無念さと

自分への限りない腹立ちとを

子供たちに

子供たちよ

ぼくのあとをついてくるなと言っても

道はそれしかない

だからみんなで歌おう

絶望に覆われたこの空が

歌が響くときだけは

穴があき

光がそそぐ

そして人生の真実の向こうに

もっと大きな真実があるような気がして

ぼくらは生きることができるんだ

だから歌おう

ぼくが声を出して

君が声をだして

ぼくらの声が一つの声になって

この空にあの空に

君の空にぼくの空に

ぼくらのこの空に

響き渡るとき

祝祭の中ですべてを許し忘れ

ぼくらは人を越えることさえできる








たとえ祝祭のあと

暗い夜道に戻っても

君たちがあの空とあの歌を忘れることはない

子供たちよ

だから信じてくれ

ぼくらが歌い続ける限り

君の絶望は救えないが

君にも本当の空をみせてあげることができる

かあさん

そうやって歌いながらぼくは

歌うことがぼくの真実だったんだと

わかったんだ

この後悔もあの絶望も

やりなおせないけど

ぼくはこうやって歌えるんだと

わかったのさ

そして

あの空のもとで

みんなの声が響き渡るときには

ぼくももう一度笑える人間になれる








真実の向こうに広がる

限りない青さを

抱きしめて生きていくのさ歌い続ける限り

君の絶望は救えないが

君にも本当の空をみせてあげることができる

かあさん

そうやって歌いながらぼくは

歌うことがぼくの真実だったんだと

わかったんだ

この後悔もあの絶望も

やりなおせないけど

ぼくはこうやって歌えるんだと

わかったのさ

そして

あの空のもとで

みんなの声が響き渡るときには

ぼくももう一度笑える人間になれる

真実の向こうに広がる

限りない青さを

抱きしめて生きていくのさ

説明ではなく創造することが文章のきも



アレキサンダーは大勢の兵士を従えた、は小説としてはあってはならない文章である ①



続き

これを二アレキサンダーの視点から書くと
王は自分の陣地に大勢の兵士が溢れているのを見て満足だった。自分の中に蘇ったデルフォイの神々が雄たけびを上げるのを感じた。
大勢の若者がさらに兵団に参加するため、長い列を作って手続きを待っていた。それは自分の中にさらにエネルギーが充填されていくような気分だった。


小説を書くときにはこうなりがちである。

作者が自分の見ているものを説明してしまうのだ。

それは三文芝居のもとになる。

アレキサンダーの陣営を説明するのではなく創造することが小説芸術なのである。

①であれば登場人物のケーオスの視点を軸に、作者でさえ知らない世界を、一つ一つ積み上げる、

そして何を作れば全体像がイメージできていくかをにらみつつ、

言葉で事物を創造する、

するとその事物が世界を構築する。

そうなってはじめて小説世界の創造となる。


【小説文の良し悪しは主語で決まる】「アレキサンダーは大勢の兵士を従えた」では読者はイメージできない|辻邦生パリの手記より

辻邦生が紹介している小説文書き方の事例

アレキサンダーは多くの兵士を従えて遠征にでた」


「多くの兵士がアレキサンダーに従って、ともに遠征に旅だった」

の比較がある。


私見であるが

アレキサンダーは多くの兵士を従えて遠征にでた」

という文章では世界を構築できない

「多くの兵士がアレキサンダーに従って、ともに遠征に旅だった」

とならなければならない。

これはどちらでもいいことではない。

この二つであれば100回書いても後者にならなければならないのである。


目に見える行動を書かなければうすぼんやりとした概念を眺めるだけで臨場感ある世界にはならないのである。

これはなぜこうなるかというと、まず遠征というものがあってそれを説明しようとするから失敗するのである。

小説は

遠征をモチーフにして

ゼロからその遠征を創造していくのである。

だから多くの兵士の行動から、その情景を作らないといけない。

もっといえば、こんな展開が望ましい(私案:失敗かもしれませんが)



アレキサンダーは多くの兵士を従えて遠征にでた   ではなくて

👇


「ケーオスは18歳の誕生日を迎えた朝に、若き王の軍事遠征に参加しようと街はずれの陣地に行った。

数えきれない若い男たちが槍や剣を手にして、早く戦いたいとばかりに天に向かって突き上げていた。将軍たちが乗った馬たちも人の多さに興奮して、いななきをやめなかった。祭りのような熱気の中でケーオスは兵団編成を司るテントの前で長い列に並んだ。

名前を記入されたら、剣か槍かを配給されるのだ。できれば槍で、突撃する部隊に編入されたいと思っていると、あたりを満たしていた音の混雑が突然消えた。

一人の若い男が真っ白な大きな馬に乗って、将軍たちの群がる奥の方から出てきたのだ。


男のマントは将軍たちのだれよりも赤く、男の姿は将軍たちの誰よりも威厳があり、男も将軍たちも何も言わないのだがそれが王、アレキサンダーであると陣地中の空気が告げていた。突然の静けさがしばらく続いたあと、堰を切ったように熱狂の叫びが陣地を満たした。

我らの王!アレキサンダー  我らの王!アレキサンダー・・・・・・・・」



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